「山椒魚・遥拝隊長 他七篇」読了。

山椒魚・遙拝隊長 他7編 (岩波文庫 緑 77-1)

山椒魚・遙拝隊長 他7編 (岩波文庫 緑 77-1)

山椒魚、小学校の国語のテストで読んだときはファンシーな話だなあと思ったけど、今読んでみると複雑。少し前に、名作を一行に要約した本というのが流行っていて、それに倣えば「渓流の岩屋から出られなくなった山椒魚が、同じく紛れ込んだ蛙を逃げられないようにしてしまい反目しあうが、やがて蛙の嘆息を聞いた山椒魚が様子を尋ねると蛙は餓死寸前だった」とかそんな感じだけど…。小説が短ければ短いほど深読みしたくなってしまう。何があったの、井伏さん?みたいな。
他篇もまた同様。亡き友人から貰った鯉を早稲田のプールに放つ「鯉」、怪我を治した鴨を飼い始める「屋根の上のサワン」や互いに離れて暮らしている召使の夫婦が再会する「丹下氏邸」、戦争での怪我が元で精神病に掛かってしまった士官と村人の話「遥拝隊長」など。示唆に富んでいるのだが、なかなか理解までにはいたらない。
作品の中には明らかな人物描写、もしくは暗喩として、威張り散らす人、それに従う人、それを冷淡に笑っている人などが出てくる。時代性とひとくるみにしてしまうのも違うのかもしれないが、戦後という言葉がちらつく。しかし、これらはある程度の普遍性をもって、現代を生きる我々にも感ずるところがある。
遥拝隊長などは、何の関係も無い村人たちを兵卒のように怒鳴り散らすのだが、描かれ方としてはシニカルでもユーモラスでもない。むしろ、ペーソスに溢れている。戦時の骸骨、等とののしられるのだが村人から貰った饅頭を恩賜の菓子と勘違いし、声涙下る演説をするあたりが反戦に傾く世相の中で独自のポジションを築き、観察者たりえたのではないかと思う。さながら、川面に釣り糸を垂れる釣り師の心境ではなかろうか。作家性とは、人間性なのだろう。